昭和五十二年七月二十日 朝の御理解

御理解第四十二節 「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」

合楽で信心の稽古を少し本気でさせて頂いた人なら、これほど信心するのに、どうしてこんな事が起こるだろうかと、いったようなことは、思わないでしょう。これはほんとにあのう、有り難いことです。それはもう日々神様の働きの間違いのない働きを目の当たりに見、目の当たりに聞き、また自分自身も、ほんとに神様の御働きには恐れ入ってしまう、といったようなおかげも、やっぱり頂いておりますから、どんなことが起こってきても、いうなら、驚かんですむというか。ね。これは、これほど信心するのに、といったようなことはまず、思わないだろう。合楽に、まあ十年もお引き寄せを頂いた人ならば、まず一人もなかろうと思うです。ね。
神様の働きというものを、いいかげんなものにしてない。もうほんとに間違いのない働き。ね。教会に来れば、それがなおさらハッキリしておる。もうそれこそ、嘘ではなかろうかと思うように、的確なおかげが教会内に現れておる。だから、もう、これほど信心するのに、といったような心は起こってくるはずがない程しに、まあいわば鍛われておるという感じがいたしますですね。
神様がござるやら、神様の働きがあっておるやら、あっていないやら分からん。それでも何十年信心を続けておるといったような方達があります。
昨日、ある教会で、鹿児島の国分教会で初め御神縁を頂いて、それから転々と、まあ教会をかわって、まあそこでものっぴきならない問題があってからかわって、もう何十年間信心を続けておるという方が、合楽でおかげを頂いておる話を聞いて、お導きを受けて、昨日参って見えた。
なるほどそれだけ熱心な信心をしておられるのに、ほんとにびっくりするような問題が起きたり、しておられます。というてその、的確な神様というものを実際見たり聞いたりしていないわけです。ね。
ちょうど私、そのお取次をさして頂いとります時に、一時の夏季修行の後に、幹部の人達が五六人集まって、表に看板が出来ます、今度よっと念のいったのが出来るらしいです。それで色合いとか、または看板の書体とか、というようなものを、たしか、五つか六つか、こう書いて、どれにしたならいいでしょうか、というお取次半ばに、ちょっとお取次の後ばすいませんけれども、と言うて、秋永先生がやってきた。それで私が、その五つ六つこれがいい、これがいいと、書いてあるけれども、私には意味が全然分かりませんけれども、何か(のうじょうかなんか)という書体なんですね。それにこれがいいだろ、と、それに丸をつけてやったんです。そしたら秋永先生が、実はみんな今、五六人で話し合って、これがよかろうちて話しよったとこでした。けども先ずひとまず、親先生にお取次頂いてから決めよう、と言うて、決めとりますとこう言うのです。
だから、そのことを、そのご信者さんに話したことですけれどもね。いうならば、せっかく信者が真心をもって信心をしておる、真心をもって御用を頂いておる、真心をもって、検討しに検討し、練りに練っておる。そこに答えは出てきておるけれども、ね、もういっぺん、なら親先生のお許しを頂いて、御神意を頂いてもろうてと言うて、ここに持ってきておるんです。丁度みんながそれのひとつんごと中から、これがよかろうと言うて、あの相談がまとまっておる、それをここへ持ってきて、やはりそれに丸を付けて頂いた。神様、取次者、そして信者。もう一貫した働きというものが、いわゆる真心がいかに神様の心に通うかということが分かるじゃないか。真、真心をもって、なら今度十年の記念祭に、いろいろと準備が起こっておる、その中のことをです、あれがよかろう、これじゃないだろうかというように練って、そこにもう一決しておる。真心がそこに一緒になっておる。これが、よかろうということになった。それをお取次を頂いて親先生に、ま、意見を伺わせて頂いたら、親先生がやっぱりそれがよかろうと、こういうことになった。
それは、その「みょうじょう」かなんかというその、何て言ったかねあれは。(「明朝体」という声)、え? 明朝か。というその書体。明朝という書体がどんな書体か私は知らん。けれどもそれがよかろうということになったという、ね、真心がそこに結集されて真心で決まった。いうならば、神様の働きがそこに起こっておるし、だから、神様、そして私、そしてここに信者と。いう一貫した働きというものがね、あっておるから、たとえば御用を頂いておっても、真心をもっての御用はこんなにも親先生に通い、神様に通うもんだなあ、という実感も湧いてくる。ね。
そこに神様の間違いのなさ。あなたのお話を頂いておると、神様と取次者と信者の中に、ひとっつも交流しとるものがない。その交流したものがない中に、何十年信心をやっぱりやめられきらんでできとる。そして様々な難儀な、第一が、家庭的にはほんとに一介の炭鉱に勤めておった人が、だんだん人に認められて、最近では町の助役までもしとられるとこう言う。けれども信心にはいつもその疑問がある。けれどもやはり信心をやめはきらん。そういう信者が、私はたくさん教団の中に氾濫しておるのではなかろうかと思うです。神様の働きはこんなにも間違いがない。神様の働きは恐れ入るな、という者も、合楽の方達はね、そんならいつどのような場合であっても、このように間違いのない働き、またはお取次を頂いての日々のことである。そこに起きてくる問題というものは、もう神ながらのものに間違いはない、と確信の出来るまでのものを合楽の方達は頂いておるということなんです。ね。
昨日も、・・・のことでしたか、話し合ったことでしたけれども、確かに合楽で頂いておるそのおかげというものは、あまりにもきちっとしたハッキリしたことなんだ。だからそれは結局、ほんとなことではあるかと。誰だったかね、その話をしました。おかげを頂いた話をしましたら、それを、そんなことないだろう、嘘だろう、というふうにしか、受け取れなかったっていう話が出ておりました。ね、で、申しますように、合楽でおかげ頂いとる現れ、おかげというものは、ほんとに、あの真実性を欠くほどしに素晴らしい。あんまり素晴らしいものだから、それはもう作り話じゃろと、いうような、誤解を作るようなことがあるということ。ね。金光様の信心というのは、そんなに間違いのないおかげを頂くのは、金光様の信心じゃない、というようなことを、いわば言うような人が沢山あるということ。
だからそういう中に、お互い信心の稽古をしておるから、神様の間違いなさ、一分一厘間違いのない働きの中に、ならそこに難儀な問題が起こってもです。そういう働きの中にあることだから、間違いはないだろう。
もう何回か前の富久信会の時に、日奈久の教会の総代をしております、たいへん熱心な信心をしておられるわけ。最近お商売が非常に不振である。ね。いうならば、今のところ赤字経営である。ね。倒産するかも知れない。けれども、もし私の店が倒産したならば、私は必ずお祝いのお礼のお祭りを、親先生に来て頂いてして頂くと言うて。このように間違いのない働きを受けて倒産するんだから、これは次に神様の、御神意、御神慮が、あることだから、これは神様にお礼を申し上げ、お祝いのお祭りを私はさせて頂く、またそれが出来れる内容を持った信心を頂いとります。
合楽そして日奈久。そこには間違いのない神様、働きを、見聞きしとるから、そういう度胸もできるのです。度胸と言うか、もうそれがね、淡々として出来るということになりましょうかねえ。
だからそういう程度の、そういう程度というか、そういう意味の信心がですね、確かに合楽の方達は出来ておる。それは有り難い。
だから、四十二節から言う、「これほど信心するのにどうしてこのような」というような、考え方やらは、もうせんですむ程しに大きな信心になっておられる。信心しておって雨が降った、信心しよって風が吹いた、しかもそれが、濡れた折れたというようなことがあっても、ね、そこで信心というものは全然それを問題にしない程しの信心というのですから、大きな信心です。
今日は私、ご神前に出て頂いたことなんですけれども、二階から末広、開いた扇子を下にぽんとこう誰かが棄てるところを頂いた。どういうことだろうかと、思わせて頂いたら、その結局、一番下から、一番肝心要の所から一段二段とこう上がっていく信心でなからなければもろいということだというふうに、頂いた。ね。どうでも、末広のおかげを頂かなきゃならん。ためには、その肝心要の所が、きちっとしとらなければ、おかげにならん。
なら、肝心要の所はどこかと言うとです、私は、合楽の御信者さん方の場合、その肝心要の所が本当ではない。今申しますように、神様の間違いなさとか働きというものは知っとるから、神様を信ずることにおいては、いわばもう、人後に落ちないものを頂いておる。だから、信心しておってどういうことが起こってきても、いうならば、神様を恨むような、どうしてこんなことが起こるだろうかといったようなことは思わない。神様の御神慮に間違いはないと頂けれるだけの信心は頂いておる。
だからもうそれは大きな信心ではあるけれどもです、なら肝心要の所が分かっておるということではない。
例えば倒産したならば、お祝いのお礼のお祭りをして頂く。もうそれこそ、その心ばえというか、もうそれこそ見上げたものである。信心をそこまで高めておる。天地金乃神さまの働きをそこまで信じておる。そら有り難い。けれどもそれだけではいけないということなんです。
神様は信ずる者を信ずる、と仰せられるのだから、それだけのことを信じておるから、神様からも信じられるのだけれども、ね、なら、それだけではいけない。
昨日、私を交えて四五人で、応接間で、お話を、あってさせて頂いた。秋永先生が、今度壮年部会のことについて、まあ壮年部会をするためには前の晩から、もう徹夜のようにして、いろいろな話し合いやら準備があっとります。そしてあの、まあ盛大な壮年大会が開かれた。そしてまたその後に、その遅くまでそれの反省会を開いた。そして明くる朝の御祈念にお参りさせて頂く。そして昼は夏期信行に参加させて頂く。そして夜は十八日の御月次祭を頂いた。そしてまた今朝参ってきて、一時の夏期修行を頂いて、思うのですね。こんなにずーっというなら、まるで連続興行である。
ずーっと神様事にかかりきっておるのにもです、かかわらずです、ひとつも昨日もあんなたいへんなことをしたという思いがない。たとえばここの大祭は、十八日の、十六日の御大祭ですかね。いうならば月次祭、前夜祭、御大祭と続いても、ひとつもそれがこのう、またお祭りを頂かんならんといったような気持ちが起こらない。結局、月次祭がまた新たなものとして有り難くいただけれるということは、こりゃ不思議な働きではあるという話でした。今、たとえば月次祭の時には、もうみんなが朝の御祈念に参って来る、昼の夏期信行に参って来る、そしてまた夜の御祈念は。ね。ならその三回がやっぱりお広前が一杯になってしまうということ。
そしてまたお祭り頂かんならんという気持ちがさらさらないこと。それはもう形通りおんなーじお祭りなんです。変化もないけれども、そこにやはりお祭りをお祭りとして、有り難くいただけるというのは、何がそういうふうにみんなを引き締めておるのか。
結局は、親先生の信心の、さらなというところが、みんなにも雰囲気が伝わるのであろう、と言うております。私もそうだと思うです。ね、日に日にさらな、ね、さらなというところはもう新たな信心がもう出てきておる。その新たな心で、いうならば、朝の御祈念が仕えられ、一時の御祈念が仕えられ、そして夜の月次祭が仕えられる。
そこにひとつの倦怠とか、そこにだらっとするというものがない。いつも引き締まっておる。それは、さらな信心だからだ。
三代様が、信心は更だと仰ったが、そのさらな信心をです、させて頂いておるのですけれども、ならここで私のさらな信心が、みんなにもそういう雰囲気を作ってしまっておると、いうことであるとするならです。ね、ならみんなもやはり、そのような信心、さらな信心を求めていかなければ、ならないということ。それを、こう求めて自分では頂いておるかのように見える観がある。
ね、その例に申しますように、なら、三味線の稽古に、師匠というなら打ち向こうて弾いておる時には、師匠とおんなじような音色が出るような感じがする。そして覚えたかのように思うておる。そんな感じがするんです。ね、師匠の弾いておる三味線の音色が、自分の耳に入ってくるから、これで自分で上がったように思うておるけども、実際なら家に帰って弾いてみると、どっこい音色の悪いこと、そしてあそこはどうだっただろうかというて、忘れておることに気がつくような、ようなものではなかろうか。
自分の音色、自分のものにしておかなければならない。なら今合楽では嘘のような、おかげを見たり聞いたりしておるから、神様の間違いのなさといったようなものを、みんなが感じておるから、いつどのようなことが起こってきても、それでこれほど信心するのにどうしてというようなことは、起こらないけれども、それがいかにも自分のもののように思うておるけれども、なら本当のおかげが頂けんのは、どこにそれの原因があるか。おかげを頂いてみて初めて自分のものになり、おかげを頂いて、さらな信心を自分のものにして、初めて、いうなら肝心要の所が分かってくるということになるのではなかろうか。
師匠と一緒に連れ弾きをしておるから、何とはなしにおんなじのようなものを頂いておるという、感じだけで、いうなら、どのようなことが起こってきても驚かん、これほど信心するのになどというような気持ちもさらさら起こらない。いいや、たとえば倒産したならば、お礼のお祝いのお祭りをして頂くくらいな心意気がでけておる。いかにもでけておるかのようにあるけれどもです。ね。なら、それ程しのものを頂いておるのに、おかげが頂けんというのは、どこからおかげが漏れておるか、どこからその信心がほんとに成就しないのか、大きな信心と言えば、こんな大きな信心はない程しの大きな信心を大きなおかげも頂いておりながら、どこからか漏れておるということになるのです。
いうなら名実共にと言うが、そういう大きな信心を頂いておるなら、大きなおかげを頂くという、そこにです、私は、信心の受け渡し、継承というかね、ね、自分で一人で弾いても完全に弾ける、自分が一人で弾いても自分で聞き取れるような音色が出るという、信心を頂いておかなければ、いけないということ。
昨日、高松和子さんが、昨日朝の御祈念の後にお届けをされました。今朝からたいへんなお夢を頂いた。娘が今学院に行っております。それに学院から電話が掛かってきた。その電話の内容は、その順子さんが急死したという連絡であった。聞いたとたんにお母さんである和子さん思うた。これほど間違いのない神様の働きの中に起きてくることであるから、ね、間違いのあるはずはない、と電話を受けた時点で、そう思うた。ね。
佐田さんが、倉庫が丸焼けになったその時点で、ね、お礼参拝をして、それこそ笑いが止まらないように、はあとにかくこげなことが起こる、もう神様のこれからのおかげは、どういう働きになってくるだろうかと思うただけでも笑いが止まらん、と言うて。あんまり笑いなさんな、火事どん焼けてから、あんたがどうか気が変になっちゃるち人が思うかもしれんばい、と婆しゃんが注意さし、注意さっしゃるぐらいやったというからね。
和子さんのその電話の中でのそれもおんなじようなものじゃないだろうか。たった一人娘のしかも学院に行って、それこそ親先生任せで、学院にやらせて頂いておるその娘が急死したという連絡を受けた時にです、これほどの信心をするのにどうしてというものを全然感じてないわけ。「そして早速ここにお礼に参拝さして頂きましたら、親先生が大変なお叱りであった。これほどの信心を頂いておるのに、家に帰って日常生活の中での信心が、どうして出来んのかと言うて、お叱りを頂いた」と言うのです。
私はもうここに、合楽の信心は、これからの信心は、もうここに極まったと思うです。ね。それこそ倒産したらお祝いでもするごたる気持ち、どんなことが起こってきても、それこそしれしれ笑うとれおれるような、お礼が言えれるようなおかげを頂きながらです。どうしてそういう大きな素晴らしい信心を頂いておりながら、おかげが受けられんのかと。
ね。どこからか漏れてるんだと。しかもなそうと思えば子供でもなせるようなことを疎かにして、右左にしておるようなことが、日常生活の中にあるんだ。これ程しの信心を頂いておって、そこがでけんとはどういうことかと言うて、親先生からお叱りを頂いたお夢でしたと、言うのです。もう、和子さん、その通りばいち。これからの合楽が取り組まなければならんのはそこなんだ。ね、いうならば、心行に掛ける。そこに水も漏らさんいうならば信心ができるわけ。
だからそういう信心が相まって、二階から末広を、広げたまま下へ落とされたというのはです。いうなら一番根本になるものは、そういう神様の間違いなさ、絶対、という言えれる程しのものを身につけると同時に、その絶対のおかげをです、自分自身が頂けれるというところまでいかなければだめなんだ。神様、おかげは降るようにたとえば下さってあっても、こんな大きなおかげの受けものを持っておるのにもかかわらず、どっから漏れておるかと。
いうならば、日常生活の中に、疎かになっておるところがある。もう、よかよかといったようなことになっておるような事があり、ありはせんかではなくて、ある。それをね、私どもがきめ細かく、いわゆる実意丁寧神信心ということになるのです。
ね。だから神様をお互い信じておる、疑ってはいない、こんなにも間違いのない神様だと、いうことを皆さんが分かっておられるのは、丁度、師匠と連れ弾きをしとる三味線の弟子のようなもんじゃなかろうか。ね、親先生が頂いとるとおんなじようなものを頂いとるかに見えるけれども、実際自分で家で弾いてみたら、それほどのことはでけていない。そこんところをです、私は、目細もう信心させて頂くということ。ね。
合楽で頂いておる信心を、姿勢を崩さずに、それを日常生活の上に現していく。そらもうたいへんなこっじゃある、窮屈なこっじゃある、と言わずに、なるほど、始めの間はぎこちない、かも分かりません。けれどもそれをいよいよ身につけてまいりますとです。私、いつかお夢の中に頂いたように、懐中電灯の部分品がそこに一つ落ちとる。一つ拾うたらまた次に落ちとる。また、次々と頂いて、一番最後に、こうレンズがこうはまった。それでこう組み立ててからちょっとボタンを押したら、ぱちっとこう電気がつくところを頂いたが、ね、どの一つを疎かにしても、光がつくというような灯りになるということにならない。
これほど間違いない神様。そしてお取次、そしてみんなのその真心という時には、昨日の書体のそれではないけれども、そのようにひとつの流れというものが間違いない働きになってここに起こってくる。ところが、ここまでは起こっておるけれども、ここでそれが崩れておるということがです。しかもこういう大きな信心、神様の、絶対信じて疑わないという程しのものを頂いておるのですから。ね。神様がおかげは下さらないはずがない。
ところが、下さるのだけれども、それをどこからかがまた漏れておる。そこんところをです。私どもは、今日は、そこからの信心というのをです。私どものこれからの一心というのは、たとえば一生懸命にお参りをするとかお話を頂くということに一心ではなくて、いわば自分の家庭の中に、日常生活の中にです、ね、それこそ水も漏らさん心行と相まった生活が身につき血になり肉になるようなおかげを頂こうと、一心を立てなければいけない。
今日私は、この四十二節を頂いて、そしてどういうふうに皆さんに聞いて頂こうかと思うたら、ある方が髪をときながす、だろうと思うようなふうをしてから、根元のところはときながさずにね、ほんの先の方だけばこうこうやって櫛でかけておるところを頂くんですよ。ね、髪を、いうならば梳き直すならば、根元からきれいにこう梳かなきゃ、梳きをいれ梳かにゃきれいにはならんでしょうが。それを髪の前の方だけに入れてこう、前の方だけをきれいにこうしておる。ね、いうなら、根本的なところからきれいに自分の信心をいうなら梳き直して、そしてです、なら、髪結いさんに行けば、そこから自分の思う通りのいうならば髪形というものが結い上げられてくるわけ。
はあ改まらないかん、改まらないかんと言うて、ほんな毛先の所だけはけずるといったようなことではなくて、もう根本の所から、ひとつあの、けずらせてもらう。梳き直させてもろうて、ね、自分の願いの髪形を結い上げた時にです。初めて合楽の信心が本当に身についたと言える時ではなかろうかと思いますね。どうぞ。